1923年国勢調査について
リトアニアは1918年2月16日に独立を宣言。その後、1923年9月に全国国勢調査が実施された。
この国勢調査は、両大戦間期のリトアニアで行われた唯一の国勢調査である。なお、リトアニアの独立以前には、ロシア帝国時代の1897年に行われた国勢調査があった(ただし、1897年当時プロイセン領であったクライペダ地方(ドイツ語でメーメルラント)は除く)。
1923年の国勢調査は、リトアニアが領有を主張しつつもポーランドが実効支配していたヴィルニュス地方や、1923年初頭にリトアニアに編入されたばかりのクライペダ地方では実施されなかった。実施されたのはカウナス、パネヴェジース、シャウレイ、ヴィルクメルゲ(現・ウクメルゲ)の4市(miestas)と20の郡(apskritis)であり、上記4市は各郡とは別に集計された。なお、1923年当時、郡の下位にはさらに郷(valsčius)が設置されていた。
リトアニアの識字率(1923年)
1923年の国勢調査によりリトアニアに住む人びとの識字率が明らかとなった。なお、この国勢調査では「読み書きができる人」のほかに「読むことができる(が書けない)人」の数も調査された。
民族ごとの識字率
以下は、民族ごとの識字率(15歳以上)を示したグラフである。
「読み書きができる人」に限定した場合、リトアニア国籍者のなかではユダヤ人の識字率が男女ともに最も高く、ラトヴィア人とドイツ人(いずれも主にプロテスタント)がそれに続いた。これに比べてリトアニア人やポーランド人(いずれもほとんどがカトリック)の識字率は低く、女性の場合は特に低かった。ベラルーシ人(主にカトリックと正教徒)とロシア人(古儀式派を含む正教徒がほとんど)の識字率はさらに低かった。
ここから、ユダヤ教徒およびプロテスタントの信者、カトリック信者、正教徒の順に識字率が高かったことがわかる。
なお、各民族の識字率の男女格差は以下のとおり。
概して、識字率が高い民族ほど男女格差は小さく、低いほど格差は大きい。
年齢別に見た識字率
各民族の識字率(「読み書きができる人」)を年齢別に見ると、次のグラフのとおりとなる。
14歳以下ではユダヤ人の識字率が最も高かったのに対して、20代以上ではラトヴィア人の識字率も高かったことがわかる。また、リトアニア人とポーランド人の識字率を比べた場合、リトアニア人は若年層で、ポーランド人は中高年層で比較的高かった。ドイツ人とラトヴィア人を比べた場合、若年層ではドイツ人がラトヴィア人を上回っていた。
子ども(7〜13歳)の識字率
子ども(7〜13歳)の識字率に注目すると、地域差が見られることがわかった。
アウクシュタイティヤ地方(北東部=下の地図を参照)は子どもの識字率が相対的に高い反面、ジェマイティヤ地方(北西部)はいくつかの小都市を除いて子どもの識字率が低い。1923年の段階では、ジェマイティヤ地方では教育が農村部まで十分に行き届いていなかったと見られる。
また、スヴァルキヤ地方(南西部)でも子どもの識字率は高い。スヴァルキヤ地方は、帝政ロシア期はいわゆるポーランド立憲王国に属しており、リトアニアの他の地方と比べてリトアニア語による教育が比較的盛んに行われていた。19世紀後半以降のリトアニア民族運動に関わった人にはスヴァルキヤの中心都市であるマリヤンポレのギムナジウムを卒業した人が多かった。スヴァルキヤ地方で子どもの識字率が比較的高かったのはこのような教育の伝統があったからかもしれない。